昔の文章を掘り返す【2005年08月21日記 英未未 「盒子」】

この映画は大陸のある都市に住むレズビアンカップルを追ったドキュメンタリーである。北京電影学院に在籍していたときに、記録片(ドキュメンタリー映画)の授業を履修していた。そのときに、先生が「テーマがデリケートではありますが、大変素晴らしい作品があるので、皆で鑑賞してもらいたい」と、この作品を上映してくれた。涙が出た。何に対しての涙だったのかわからないのですが、自然と流れた。清すぎるものへの畏敬と、確固たる「愛」の形を始めて痛感したことへの驚きだったのかもしれません。当時の僕は、中国の同性愛映画について卒論を書こうといろんな資料を探していた時期でした。思いもかけず、素晴らしい映画に出会い、先生に即座に、旨を伝え、この作品のビデオテープを譲り受けた。帰国後も、大学卒業してからも、思い出したら何度も見返している。見るほどに感慨も思い入れも深くなっていくようである。

監督の英未未はTV局のディレクターで、年齢も1970年生まれとまだ若い。そういえば、中国のドキュメンタリーは飛ぶ鳥を落とす勢いで、得てして傑作ぞろい。しかも、70年代生まれの若い作家達によるものが多い。2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭グランプリの王兵(受賞作は「鉄西区」)も該当する。おそらく今年も山形には初耳の大陸出身監督が佳作を送り込んでくるのだろう。

中国で同性愛をテーマとした映画は、もちろん発禁の対象となる。日本では公開もされた張元監督の「東宮西宮」も、元は大陸で発禁処分を受けた作品である。大陸においての同志片は極めてアングラであって、限られた販売経路、上映会も大規模には行えず、外国の映画祭出品などで名声を得る方法が一番の世に名を売ることができる唯一の方法と言っても過言ではないかもしれない。

しかし、ここ数年、その得意なインディペンデント的な精神を保ちつつも、描かれる同性愛の事情たるは、何にも束縛されない奔放さが描いてあり、劇中の登場人物にとくに閉鎖的な陰りなどは見られない、逆に、インディペンデントであることを利用して、いかにも精神面で特化した独特のシナリオが見られ、この国の同志圏の進んだアーティスティックな部分にかえって憧れを抱いてしまう。その先端を担っているのが、崔子恩であるのだが、このトピックはおいおい。

さて、今作を撮るにあたり、英未未はインターネットに対象を求めたようである。その後、「ペドロ・アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』が好きか?」と締めくくられたE-mailを受け取ったらしい。メールをくれたのは小甲といい、画家の卵である。パートナーは小乙といいシンガーである。撮影をするにあたり、英未未は2人と7日間寝食を共にし、2人の織り成す世界の純真さに圧倒され、自らも対象へ向き合う覚悟を決めて短時間ながら確固たる信頼関係を築いたらしい。

もともと、彼女は圧倒的な立場にある男性社会に疑問を持ち、「女性」というジェンダーを幅広くテーマに求めていたようだ。彼女自身がフェミニストなのかどうかわからないのだが、自身が女性であるからこそ、2人に出会え、記録を残すことができた対象なのかもしれない。そして、映画を含め、裸になって曝け出すことを受け容れた2人のでかさに感謝している。本来は2人だけのはずの世界に他人がカメラをまわしているという特異な状況。まず、監督と対象という関係、そこから、友達となっていく過程がある。この過程を経ることで生まれる、自然体の2人の画。映画を撮り終え、別れ、結局2人のために何ができるわけでもない。そこらへんのドキュメンタリー映画の監督の情たるや、悲しきかな。当の2人は、過度の悲壮もなく、常軌を逸した愛欲でもなく、淡々とした生活をこれからも迎えるし、いつか何らかの終りが来るということも分かっているはずだ。撮る側が何もできない辛さってのは、ドキュメンタリーの宿命なのかも。

以上は、作り手の方への敬意を込めての一筆、みたいなものとして置いておく。実は、そんなことさておきで、2人は本当に潔く、綺麗で、充実した生活を送っている。心も体もオープンに、満遍なく披露している。観る側にも充分伝わるストレートな感情表現だし、照れる場面もある。彼女たちは、自分にとっての「性:ジェンダー」を熟考し、受け容れた上で、今のパートナーがいるのだということが充分伺える。

モノクロトーンで撮影されている独白の部分では、赤裸々に自らの同性愛者としての観念を語っている。見れば見るほどわかったようでわからなくなっていくのだが、2人にとっては意外とフェミニズム的な感覚どうこうはあんまり無く、女性が好きという1点のみを潔く受け容れただけなのかなと思う。小乙は男性とも関係があったのだが、性行為において全く感じる事がなく、それで初めて自分は女性が好きなのかと思い巡らせたようで、特に、男性への敵意みたいなものは無く、2人で2人が好きなように生活や関係を育んでいる。だから、男の自分が見ても罪悪感的なものが何も無い。(そんなんがある時点で自意識過剰とは思う。汚らわしい。)

いやらしいが、期待する破壊の部分、2人の仲のほつれとか、そういうの。有る。実は、小乙には他の女性の存在がちらほらしている。喧嘩もしている。ただ、その喧嘩を見たところで、この2人は壊れないよ、という、他人の癖して妙な自信がある。まったくもって、可笑しいことなのですが、自信が相当植えつけられるのである。

結局のところ、何が言いたいのかというと、それくらい、2人の世界の清潔さというか、只、美しい純真な2人というわけでなくて、いっぱい傷ついて、いっぱい泣いて、いっぱい裏切りもあってるんだろうけど、そんな負の部分が全部味方になるよって思わせる要素が理由なしでここにはある。

自分が男であるので、実は、思っていること、見る眼のこと、感じたことに後ろめたさとか嘘、本当の男の目を隠してるだけ?という思いが常に付き纏うのだが、誰にでもそうなんじゃないかと思うのです。此処まで来て、初めてこの映画を見て涙が流れたのがすべてでなくても自分には納得できるのです、が、どうでしょう。最後まで自信がないのが情けない、でも、これからも何度でも見続ける映画です。

傑作中の傑作ドキュメンタリー。


「盒子」/The Box/88min./2001年/
監督・撮影:英未未