昔の文章を掘り返す【2005年06月21日記  詩の朗読】

先日、新世界:ココルームでのライブに参加させてもらったときに、詩を朗読いたしました。

人様の前で詩を読むという行為は人生で2度目のことであります。
一度目は小学校中学年のとき、各クラスの合唱コンクールのとき、唄への導入にあたり、なんとなく雰囲気を作るためだったのか、詩を朗読(正しくは暗誦)させられたです。そのとき僕が朗読したのは、谷川俊太郎のみちシリーズ(『連作歌曲 みち』)から「みち7」でした。おそらく、小学生らしく、元気いっぱい、「みち〜、7〜、谷川俊太郎〜」てな感じで暗誦したのをなんとなく覚えてます。

そんな過去の経験が活きたかどうかまったく定かではありませんが、経つこと十数年、今度は中国詩を中国語で中国ノイズのDJをバックに朗読いたしました。(正直、この行為は、この日のライブイベントには異質なもので、技術も高くないため、ダイブ、空気を変えてしまったのです、ちょっと、反省。)

しかも、演者はステージ横のスピーカーの後ろに隠れるように居り、ステージ中央に新華辞典を置き、それにピンスポットのライトを当てるという、実にふざけた演出をしました。これで、小学生当時の経験はまったく活きてないことが、まず判明。

実は、かのようなアングラな試みは、大陸本家でも頻繁に行われてるものでありまして、典型的なパターンとして、即興音楽を得意とするバンド+詩を諳んじる個人+実験映像を提供するVJのユニット活動をよく行ってらっしゃいます。曲調は民族音楽を上手く取り入れ、アンビエントなものからノイジーなもの、詩もシャウトのあるものからミニマルなものまで、視覚的なパフォーマンスも含め、実にバラエティーに富んでいます。それらのライブを収録してインディーズ盤でリリースするのが最近顕著にみられます。それらをせこせこ収集している日本人が此処にいますです。

有名どころでは、
顔峻+FM3+武權 『不可能诗歌朗诵会现场录音』
另外两位同志+顔峻 『現場』
另外两位同志+顔峻+頂樓的馬戯團 『Improvisation in Shanghai』
などがあります。

その詩を諳んじる代表格で、上記の3枚全てにクレジットされています、顔峻さんというお方がおられまして、彼は、僕にとっては大師(一方的にですが)と崇めています。

僕の今回のパフォーマンス(まがい)も彼らの模倣的な部分が多く、詩は極めて低音であることを心がけ、音程変化は勤めてミニマルに、男性の一番低い音域で震える限界点を目指して、その声にノイジーなエフェクトを被せました。

DJのほうも、アンビエント調なものを基調に、ノイジーなものを被せて、奥行きのある感じを持たせてました。

さて、一番大事な詩のセレクションですが、北島という方の”一切”という詩を選びました。
この北島という人は、中国現代詩の第一人者でありまして、芒克という詩人と画家の黄鋭で、『今天』(TODAY)というアンダーグラウンド詩集を創刊しました。78年のこと。

僕がそんな詩集のことを知ったのは98年、北島の日本語訳を担って親交も厚い、是永教授の授業にて。もっと講義を真面目に受けてればなあ、と、今更痛感。丁度この年、『今天』(TODAY)創刊20周年っていうことで、イベントがあったようで、先生も参加されていました。

日中国際芸術祭──『今天』20周年記念・詩とアートの夕べ
http://www.longtail.co.jp/~shoshi-y/today.html
http://www.longtail.co.jp/~shoshi-y/today3.html


是永先生、このために1ヶ月くらい休講だったのを、喜んでいた自分が全く持って恥ずかしいものだ、所詮学生の考えることなど、20歳のペーペーにはこの詩の魅力はわかんなかったんだなぁ、と。生まれた分だけ、育ってきた雑誌の存在を知りえただけでも幸せか?

講義復帰後、先生のこぼれ話、信じられないような日本側の参加詩人たち、詩の朗読なんて凄すぎるし、聞いてやっと、この人の偉大さに気づいてた当時。授業中、突発的に龍角散を水なしで飲んでよく咽てはった。

最近、北島の詩集を購入した。
改めて読んでる。チャイナ・ミスト(中国朦朧詩)、自由、なにかからの解放、旋律、基本の破壊、非常に面白い。ついでに、思潮社からでている北島の日本語訳も載ってる「海外詩文庫7 中国現代詩集」も購入した。北島の原本の面白さを残したまま、日本語版でも「詩」となって、翻訳されている。友達が詩の翻訳について卒論を書いていたが、彼も詩人だったなあ、是永教授も詩人だった。

授業で扱ったのもあったし、いろいろ思い入れもあるので、北島の初期の代表作ともいわれる”一切”という詩をセレクトしました。

一切都是命運 (一切が運命)
一切都是煙雲 (一切が煙)
一切都是没有結局的開始 (一切が終りのない始まり)
一切都是稍縦即逝的追尋 (一切がつかのまの追跡)
一切歓楽都没有微笑 (一切の歓びにほほえみは無く)
一切苦難都没有泪痕 (一切の苦しみに涙の跡は無く)
一切語言都是重複 (一切の言葉はくりかえし)
一切交往都是初逢 (一切の交わりは初めての出会い)
一切愛情都在心里 (一切の愛は心の中に)
一切往事都在夢中 (一切の往事は夢の中に)
一切希望都帯着注釋 (一切の希望には注釈がつきまとい)
一切信仰都帯着呻吟 (一切の信仰には呻吟がつきまとう)
一切爆発都有片刻的寧静 (一切の爆発はかたときの静寂をともない)
一切死亡都有冗長的回声 (一切の死は冗長なこだまをともなう)

*日本語訳は是永 駿氏 「海外詩文庫7 中国現代詩集」思潮社刊より


僕にとって、”一切”という言葉は震えがするほど怖いものである。この一言を語頭に持ってくることで、その後に続くすべてのことを全肯定か全否定してしまうのである。しかし、これらの”一切”は切迫感をうけつづけるこの時代、誰もが盲目していた世界の中から掴み取った確固たる「何か」なのかもしれない、だから、これらの”一切”は冷静なものであり、強いものでもある。

そのため、何度も繰り返す”一切”には、静かな中にも自然と力が備わっていたように自分でも思いました。

もう1篇は、孟京輝という劇作家の演劇「我愛XXX」の脚本からの台詞、『我愛』をセレクト。
これは、ノリも変わって、一人つぶやきながら、「嗚呼、俺、こんなん好きやったんや」、と、なんか思い出の品を見つけて、懐かしいオセンチに浸ってる感じを出しました。ちょっと、長くて、3分の1にも満たぬところで割愛しました。

まあ、こんなに意図してる部分とはかけ離れたところで、即興性が先行し、テンパった状態で朗読してたんですが、また、やってみたいなあとは思います。次はもっと、読み込んで自分のものにしてから、即興性もだしてこう。何よりも、まず、聞いて恥ずくない中国語も必須ですな。(多分、中国語がわかる人の前では辛い・・・)