昔の文章を掘り返す【2003/11/26 (Wed) 北京パンクの変遷】

僕がこの文章を書くのは非常に恐れ多いとは思うのですが、今の段階で、北京パンクを総括するのはあながち間違いではないと思う。理由として、北京パンク創世記から活躍していた、脳獨(Brain Failure)がある程度確固たる地位をおさめ、世界進出を果たしたことがあげられる。また、音楽性もパフォーマンスも質が高く、各方面で評価を得ている。おそらく、何年か経つと北京パンクのパイオニアと、語られる存在になるだろうとおもったからである。

1998年くらいに北京のパンクは産声を上げた。五道口にあるライブハウスのSCREAM CLUBを拠点とし、主に4つのバンド(69、A Boys、脳獨、反光鏡)からなるバンド集合体「無聊軍隊」が活躍した。設備もろくに揃わず、楽器も使いまわしで、技術面で上手いか下手かでいえば、下手であったろうが、毎週熱いライブが行われてきた。

このときの彼らは、音楽でも生活でもファッションでもパンキッシュなスタイルを体現している、としかいいようがなかった。何よりも、ハングリーさ、エネルギッシュな点、なにか強い権力に立ち向かうような反骨精神とでもいおうか、実に北京でしか味わえないようなパンクがあった。それを担っていたのはその歌詞だと思う。一度聞けば誰でもわかるサウンドにのせて、北京語で純粋に叫ぶ。この北京語の音の響きが、非常に重く、心地よい。あとは、簡単な英語とoioiである。ドスの効いたなんとも迫力の在るシャウトだ。これに尽きる。

そして、この北京のパンクシーンは1年もすると、中国各地で知られるほど大きなシーンを築き上げていた。その盛り上がりはオムニバスCDをメジャーにて発売させるというかたちで証明された。

北京のバンド特有なのだろうか、様々なパンクバンドが誕生しては消えていった。パンク創世記から核を成してきた、無聊軍隊もバンドによって差ができた。
A Boysはたびたびメンバーチェンジをしたり活動休止を繰り返し、あまりバンドが成熟しなかった。
69はバンド自体消滅した。
実質もとの無聊軍隊のままであり続けたのは唯一、反光鏡だけだろう。反光鏡は、確実に自分達のスタイルを築き上げて、いつみても安心するライブを見せてくれていた。サウンドも随分落ち着いたように思える。
そのなかで、脳獨はボーカル肖容を中心にメンバーを再構成し急激に成長した。完全に北京のパンクのリーダーのバンドとなった。

そのほかのバンドでは、米国のマスコミに登場し、一躍名を馳せた、ガールズバンドのHang on the boxが着実に成長していった。

SCREAM CLUBが消えたあと、2000年にはパンクバンドのライブ活動も開心楽園に移り、バンド数も増えてきた。いわゆる、第2世代のパンクバンドの登場である。また、このころから、脳獨、Hang on the boxをはじめ多くのバンドが、従来の中国語詞から英語詞へと変化していく。海外的戦略を意識したのだろうか、この2バンドは、日本、アメリカなどの海外公演をこなすようになり、日本での契約やアルバム発売に至り、絶対的な地位を確立する。

2002年には開心楽園が消え、パンクバンドのフィールドは五道口マクドナルド地下1Fのライブハウスへと移った。この時期には多くのパンクバンドが産まれるも、特に個性の強いバンドはなく、純粋な北京のパンクというよりは、どこでも見られるスタンダードなパンクが主流となる。実は、この時点で北京のパンクという概念が薄れて来てしまっているのではないかと思う。

ここまできて感じるのが、商業化された主流のパンクに北京ものっかってしまったような気がするのだ。アンダーグラウンド的なハングリーさ、エネルギーが薄れていってしまっているようなのだ。パンクをやることが、ファッションの一部であり、かっこよさの一つの部分のような軽い感じがするのである。

もう一つパンクが激しい街に、武漢がある。
北京パンクよりも、さらに濃い、中国語のシャウト。圧倒的なパワーサウンド。技術よりは勢いである。
2000年に、数バンドが北京に訪れてライブを敢行したのを拝見したことが在る。
正直北京のバンドを圧倒していたし、ぶっ倒れそうになった。
今でも、武漢でこのような熱いパンクが存在しているのならば、武漢という土地でパンクが今でもアンダーグラウンドでくすぶり続けているからなのだろうか。

とにもかくにも、北京パンクという言葉それ自体が、過去の遺産となりつつあるような気がするのである。
(了)

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【2011年冬の加筆】

恥ずかしいですね、上記。

さて、2004年からのことを簡単にまとめた方がいいでしょうか。
いろいろシーンは変わってきたと思います。


脳獨、Hang on the boxは、数年に渡り、年に一度は訪れていたかな。(現在Hang on the boxは解散)
日本で彼らのライブが見れる等、当時は想像に堪え難し。
両バンド、2003年のミナミホイール始め、脳獨は、2004年に、大阪のクアトロにも登場。


あとは、D22というライブハウスを中心とした新世代のバンドに注目。
あんまパンクとは言えないかもしれないけど、ガレージ系?ちょっとノイジーでもシューケイザー的でもあるというか。
CarSick Carsを始め、このライブハウスから育って、欧州へライブ遠征に行くバンドがいくつかありました。
洋楽ネイティブの彼らの耳は洗練されてて、とにかく曲もスタイルもスマートでかっこいい。


Why D-22?

上記の映像を見てもらうとこのライブハウスとそこへ出入りするミュージシャンの雰囲気わかるかも。


後は、地方のパンク事情。
武漢パンクは相変わらず勢い有ると言えるのか言えないのか、SUBSが武漢ゆかりのバンドと言えるか。
ただこの都市発信のニューウェーブがある、AV大久保がそのバンド。
武漢は中国ロックで重要な地方拠点であると思う。


南京も熱い、PK14を産んだ街。
直接ライブを見た機会は少ないが、パンクシーンは面白い。
他にも地方で面白いパンクシーンが起きている場所は有ると思うんですが、把握できてません。


もうパンクを聞かないおっさんになってしまったので、加筆といっても実に中身がなく、申し訳有りません。
その都度見逃せないパンクシーンがあれば、足していきます。


中国のパンクは、まだ進行形であるとは言えると思います。